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−トボトボある記−
《その19》
                                                平成18年7月27日
19.再び映画館ラッシュ
 18日目−昭和30年代前半は、全国的に新しい映画館が開館している。昭和35年の話であるが、帯広には西1条から西3条の通りに10館があたのである。ちなみに、終戦直後は3館であった。
 10の映画館とは「ミマス映画劇場」「スバル座」「日劇」「テアトル銀映」「東映オリオン劇場」「大映」「キネマ館」「プリンス劇場」「帯劇」「帯広東映」である。
 「大映」の前身である「東劇」は、昭和30年8月に西2条南9丁目に夷石チェーンの経営で開館したが、昭和33年には「帯広大映」としている。映画館の説明は別にするとして、昭和30年から35年ぐらいまでの帯広のまちの様子を紹介して見たいと思う。
 昭和30年9月30日に、三条高校の40周年記念の同窓会が開かれている。会費は100円。現東京都知事の石原慎太郎(当時東宝社員)が文芸春秋に「太陽の季節」を発表し「太陽族」が誕生した頃でもあった。
 昭和31年には、川西地区の合併が決定したのを受け近隣の中札内村や大正村などに動きがあったようだ。更には、十勝大橋を境にして千野・木野地区の住民が帯広市への編入を進めようと署名運動も始めている。タバコのピースが45円から40円に、富士が120円から100円に値下げされた年だった。
 昭和32年9月には、十勝を大豪雨が襲い管内の住宅1000戸が浸水にあっているが、その年の11月10日の十勝毎日新聞は、「豊作で豆190万俵出回る」と報じている。映画の話をすれば、学習院大学の学生が映画に出演したとして「放校処分」を受けている。帯広での映画入場料は150円。
 昭和33年には、当時の皇太子(現天皇)や当時の岸総理大臣が十勝を訪れている。今は取り壊されてしまったが、全長352メートルの帯広大通りのこ線橋が事業費1億7000万円かけて完成している。この年、売春防止法が施行されている。また、テレビの受信契約も100万件を突破となりいよいよ映画の斜陽化のまえぶれが始まったと言える。
 昭和34年は、緑ヶ丘公園の特設リンクで第14回国民大会氷上大会が開かれている。また、白樺学園高校や拓殖バスでの労働争議が起きている。市長に吉村博氏が当選、36議席を争う市議選に57人が立候補、十勝鉄道が歴史を閉じる、27歳の母親が8歳の実の娘を殺す、三条高校野球部が甲子園に出場等などのにぎやかな帯広だった。この年、日本人の平均寿命が発表され女69.6歳、男65歳だった。
 昭和35年の帯広の風呂代は17円だった。ラーメンは50円。今は無いが道東で一番大きい市民会館の工事が始まったのもこの年である。テレビ受信者数全国で500万突破し、カラーテレビの放送も本格的に開始された。 


70.東劇−昭和30年8月に西2条南9丁目に開
  館。翌31年には「大映」と名称を変更して
  いるが、昭和45年には閉館となった。経
  営者は夷石勝。(菅野作品)


71.日本劇場(日劇)―昭和31年に西3条南9
  丁目に開館。帯広の映画館は9館となった
  が日劇は昭和54年に閉館した。(菅野作
  品)
72.東映オリオン劇場―昭和27年9月に「オリ
  オン劇場」としてスタート。その後「東映オ
  リオン劇場」と呼び名を変え昭和37年まで
  東映の映画を上映していたが、42年から
  は洋画の封切館として数々の名作を上
  映。昭和47年10月22日閉館。(菅野作
  品)


73.日劇−昭和33年に「東劇」は「大映」と改名
  した。昭和45年閉館。(菅野作品)
74.帯広東映―昭和35年9月10日、西1条南
  11丁目に東映直営館として「帯広東映」
  が開館。10館目だったが、平成5年に閉
  館している。この頃、藤丸デパート内に
  「藤丸ニュース劇場」もあり、帯広の映
  画館11館時代と呼ぶ人もいた。(菅野作
  品)
75.(鎌田作品)

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