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−トボトボある記−
《その17》
                                                平成18年7月26日
17.映画館ラッシュが続く
 16日目−昭和25年以降は、帯広市内に映画館が次々と誕生した。
昭和26年−「ミマス館」が「ミマス映画劇場」と改名。
昭和27年−「スバル座」誕生。
昭和28年−「オリオン劇場」「プリンス劇場」誕生。
昭和29年−「テアトル銀映」誕生。と言った具合である。正に、大衆文化としての映画がしのぎを削る戦いであったとも言えるのである。宣伝は、絵看板であり、新聞広告でありそしてチラシであった。
 昭和28年に上映されたアメリカ映画「風と共に去りぬ」の宣伝は、セスナ機で二万枚のチラシを空から巻く過激?な宣伝も行なわれた。
 この当時の帯広のまちはどうであったか、いくつかの話題を拾って見る。
 昭和25年11月30日−第1回帯広市民文化奨励賞にアイヌ研究家吉田巌氏が受賞。昭和26年1月10日−映画館「美満寿館」全焼、損害額500万円。昭和27年3月4日―十勝沖地震発生、死傷者103人、家屋全壊246戸、200億の財産消滅と被害甚大。昭和28年7月−腕上達者続出の「パチンコ熱」過熱で、店側ギブアップ、店舗数30軒。昭和29年11月26日−佐々木川西村長、合併問題で「死んでも反対じゃ、帯広にだまされてたまるか」と大気炎をあげる。


58.昭和25年に3代目「キネマ館」(夷石勝経
  営)が改築された。「キネマ館」のネオン
  サインを見ようと十勝管内から人々が集
  まった。(菅野作品)
59.昭和26年には「ミマス映画館」は、フィルム
  に引火した火事のため焼失したが、6月に
  は「ミマス館」として復活することになる。
  しかし、昭和52年6月30日には閉館した。

  (菅野作品)

60.「ミマス館」の前身「神田館」(佐藤市太郎
  経営)は、大正7年に西1条南4丁目に開
  館した。その後「美満寿館」(加森為蔵経
  営)「ミマス映画劇場」と呼び名を変えなが
  ら昭和26年に「ミマス館」(西村策雄賃貸
  経営)となった。この頃の映画入場料は8
  0円に値上がりしていた。(菅野作品)


61.昭和27年7月、西2条南7丁目に帯広市に4
  館目の映画館として「スバル座」が開館し
  た。経営者は、釧路市の浅川興業だった。

  (菅野作品)
62.昭和27年9月19日には、西2条と3条の中
  通りに「オリオン劇場」が開館した。上映し
  たのは総天然色洋画「はげ鷹は飛ばず」
  だった。「オリオン劇場」は、後に「東映
  オリオン劇場」と改名する。(菅野作品)


63.昭和28年には、西1条南9丁目に「ニュ−ス
  劇場プリンス」(夷石勝経営)が開館。画は
  昭和35年当時の「プリンス劇場」で、正月
  興行「大天狗出現」(嵐寛十郎主演)の看
  板が見える。(菅野作品)
64.昭和29年には、西2条南9丁目に「テアトル
  銀映」(夷石勝経営)が開館。昭和46年に
  閉館。映画入場料は100円になっている。
  大正11年11月25日帯広で生まれた歌人
  中条ふみ子が、8月3日31歳の生涯を閉じ
  ている。(菅野作品)
65.(鎌田作品)

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