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−トボトボある記−
《その11》
                                                平成18年7月18日
11.昭和7年からの動き
 10日目−ボクは、昭和7年に「熊の出る開墾地」が十勝を舞台にしてつくられてから、昭和22年まで映画ロケの記録を見つけることができないでいる。但し、昭和14年にそれまでの「栄楽座」が「帯広劇場」として再出発している。この「帯広劇場」は後に「帯劇」と呼ばれる訳だが、それまでの「畳席」から「椅子席」につくり変えられた画期的な映画館に生まれ変わったのであった。経営者も、今越惣吉から初代藤下儀右衛門に交代している。
 そこで、十勝での映画の動きを知ることができないボクは、昭和7年以降の日本映画の動きを調べて見た。その一部を抜書きすれば、
1.昭和7年5月―チャリ−・チャプリンが来日している。
2.同年10月−「熊の出る開墾地」制作会社の不二映画社が解散している。
3.昭和10年7月−松竹系の楽士、弁士を全廃している。
4.同年10月―映画史で忘れてはならない「マキノ・トーキー製作所」が
  創立している。
5.昭和12年12月−日本初の映画雑誌「日本映画書誌」が映画評論社から
  発売されている。
6.昭和13年1月−女優岡田嘉子が杉本良吉とソ連に亡命している。
7.昭和15年8月−文部省は、学生の映画鑑賞の制限を通達している。
  そしてその翌年、日本は戦争に入ることになるのだ。 


38.昭和5年8月、帯広駅は改築され、東北海
  道の大玄関口の風格があった。
(菅野作品)
39.昭和8年8月9日、帯広駅前にモダンな交番
  ができた。

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