■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■
■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■

−トボトボある記−
《その10》
                                                平成18年7月14日
10.活弁時代の終わり
 9日目−もう少し、事前準備に時間をかけよう思う。なぜか。それは少し理屈っぽくなるが、日本映画の発達は「サイレント(無声映画)時代」から、映像と音声が同時に出てくる「トーキー(有声映画)時代」へと流れる。その「活動写真時代」に、画面の説明員として活躍した「弁士(活弁)」について少し知らなくてはならないと考えた訳である。
 十勝での上映は、芝居小屋「朝倉座」(明治37年開館)から始まるが、「トーキー」の先陣を切ったのは「栄楽座」(大正5年)であった。「栄楽座」は、映画制作会社「日活」と契約し弁士花房春波、松平夢郷らを得て活弁つき無声映画を上映した。
 しかし、「サイレント」から「トーキー」へと映画が大きな変化を見せようとした頃、昭和7年を言うのだが、4月18日、東京日活系の活弁、楽師3000人の「トーキー反対」のストライキがおき、全国へ波及している。帯広はどうだったかは、今のところ語れるまでの調査に至らずである。
 でもボクは、十勝を原作にした「熊の出る開墾地」が、十勝でロケされた最初であることを知った。この映画に、僕の少年時代と重なる弁士徳川夢声も関わっていたことも分かった。ボクは、とても心地よいのである。 


37.映画は、いよいよ活弁時代から「発声活動
  写真時代」へと移っていく昭和初期。
       (「日本映画発達史」)

←前 次→


     




inserted by FC2 system