平成16年8月5日  6

 いよいよ帯広市内の廃校小学校の紹介も最後となりました。それでは、昭和54年廃止の別府(上帯広第一)小学校から、昭和55年3月廃止の岩内小学校までをご紹介します。


帯広市立別府小学校
明治35年4月 1日開校
昭和54年3月31日閉校
画・菅野孝雄氏 校歌調査中
(情報をお待ちしています)
絵・鎌田博文氏
別府小学校は、明治35年4月1日に上帯広家庭教育所として開かれた。その後、上帯広簡易教育所(明治38年)、上帯広第一教育所(明治41年)、上帯広第一尋常小学校と改称した。

昭和22年5月1日には、学制改革によって別府中学校を併設し別府小学校と改称している。なお、別府中学校は昭和26年に川西中学校に統合している。


昭和26年は、開校50周年の年であった。

昭和32年4月1日には、帯広市立別府小学校と改称した。

昭和40年4月1日には、自校方式の学校給食を解消しセンター方式とした。

昭和54年には、隣接地域にあった上帯広小学校、富士小学校、川西小学校と一緒に閉校し、新しい今の川西小学校として統合されたのである。



(旧)帯広市立川西(売買)学校
明治33年4月21日開校
昭和54年3月31日閉校
画・菅野孝雄氏 校歌制定日/調査中 絵・鎌田博文氏
旧川西小学校は、明治33年4月21日に、上帯広村・売買村簡易教育所を前身として創立された。その後、売買尋常小学校(明治35年)に昇格し、明治40年には、後の富士小学校となる上売買家庭教育所を開設している。

大正15年4月16日には、川西尋常高等小学校として改称し、高等科を併設している。

昭和3年12月15日には、旧川西小学校校舎を新しくしたが、同年12月23日には稲田小学校を分離している。

昭和16年4月1日には、国民学校令により、川西国民学校と改称した。

昭和22年4月1日には、学校教育法により、川西村立川西小学校と改称した。

昭和32年4月1日には、町村合併により、帯広市立川西小学校と改称した。

昭和45年11月1日には、創立70周年記念式典を行った。


昭和54年4月1日には、旧川西小学校、富士小学校、別府小学校、そして上帯広小学校の4校が統合して、現川西小学校となる。



帯広市立富士小学校
明治40年4月 1日開校
昭和54年3月31日閉校
画・菅野孝雄氏 校歌制定日/調査中 絵・鎌田博文氏

富士小学校は、明治37年4月に、私立上売買・上帯広家庭教育所として伊藤石次郎宅に開所した。

明治42年10月1日には、売買尋常小学校附属上売買特別教授場の認可を得た。

大正2年4月15日には、上売買尋常小学校となった。

昭和2年には、字名変更により富士尋常小学校と改称した。

昭和16年4月1日には、富士国民学校と改称した。

昭和22年4月1日には、川西村立富士小学校と改称した。

昭和52年4月10日には、開校70周年記念式典を挙行している。

昭和54年3月31日には、小学校の統合により4月1日に川西小学校となる。




帯広市立上帯広小学校
明治40年4月 1日開校
昭和54年3月31日閉校
画・菅野孝雄氏 校歌制定日/調査中 絵・鎌田博文氏

校歌制定日/調査中 絵・鎌田博文氏
上帯広小学校は、明治40年4月1日に、上帯広教育所付属特別教授場の名称で、本願寺説教所を仮校舎として設立された。

明治41年4月1日には、上帯広教育所と改称した。

大正元年10月1日には、上帯広第二尋常小学校と改称した。

大正12年4月1日には、国民学校令により、河西郡上帯広国民学校と改称した。

昭和22年4月1日には、学制改革により、河西郡川西村立上帯広小学校と改称した。この年に、上帯広中学校を併設している。

昭和32年4月1日には、帯広市との合併により、帯広市立上帯広小学校と改称した。

昭和51年8月22日には、開校70周年記念式典を挙行した。

昭和54年4月1日には、統合により現川西小学校となる



帯広市立岩内小・中学校
大正10年5月24日開校
昭和55年3月31日閉校
画・菅野孝雄氏 校歌制定日/調査中 絵・鎌田博文氏
岩内小・中学校は、大正10年5月24日、大正村上戸蔦尋常小学校岩内特別教授所として開設された。

昭和6年2月1日には、小学校に昇格し、公立岩内尋常小学校と改称した。

昭和16年4月1日には、国民学校令により、岩内国民学校と改称した。

昭和22年4月1日には、川西村立岩内小学校と改称し、5月1日には、学制改革により、河西郡川西村立岩内中学校を設立し、岩内小学校との併設となった。

昭和32年4月1日には、帯広市との合併により帯広市立岩内小・中学校と改称した。

昭和55年3月9日には、創立50周年記念式典を挙行し、3月23日に閉校した。

昭和55年4月1日には、清川小学校、清川中学校に統合となった。



 私は、8月2日掲載(5)の中で、旧広野小学校の前身は「上帯広第三尋常小学校」であるが、なぜ「第三」なのかを調べたいとしていました。調査という程のものではありませんが、分かりましたので報告しておきます。

答えは明快でした。上帯広第一尋常小学校(大正元年9月20日改称)は、明治35年を学校の始まりとする後の「別府小学校」、上帯広第二尋常小学校は(大正元年10月1日改称)、明治40年を創設とする後の「上帯広小学校」、そして上帯広第三尋常小学校(大正4年4月1日改称)は、明治41年4月を始まりとする旧広野小学校の順と言うことです。どうしても、今の姿からの発想をしてしまう私です。この順番は、きっと当時の地域の元気度?順なのでしょう、と思う事にしました。間違っていたら教えて下さい。

 私の調査によれば、旧広野小学校の校歌は、「昭和32年3月」頃に制定されたと判断されます。根拠は、昭和50年3月23日発行の帯広市立広野小学校閉校記念誌「あゆみ」に、校歌の作詞者である当時の校長伊藤友範先生が、開校50周年行事と校歌の作詞・作曲に振れている点にあります。

 私の「とかち学び舎物語」への取り組みの重要なねらいの一つに、「校歌制定の背景」を知ることをあげることができます。皆様の情報提供を心からお待ちしています。



  



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